耳、ぐりん

知らない人の人差し指が耳の穴の中に入ってくるということに、どうしても慣れることがない。耳の中洗いますね、の一言くらいあってもよさそうなものなのに、いつも突然ぐりん!とやられるから、心の中で小さく「あ!」と叫ぶ。実際には顔の方も「あ!」になっているが、布で覆われているので大丈夫、多分ばれていない。「あ!」の残響が終わるころにすべての泡が流れきり、「お疲れさまでしたー」とかなんとか労われながら上体を起こす。開けた視界に慣れないまま、呆けた表情で髪の毛を拭いてもらっていたら、今度はタオルをかませながら耳、ぐりん!をやられて、私は性懲りもなく「あ!」と叫ぶ。22になっても美容室が怖い。

鏡越しに担当の人と目が合いそうになって、あわてて自分の顔に視線を戻す。学生時代の話をしていて偶然同郷であることがわかり、えっチャチャタウンってわかりますか?懐かしい。ああそう、ちょっと歩くとアウディの販売店があって、JRの駅からは少し遠いんですよね。お互いの記憶の地図を重ねて郷愁にかられ、その間も相変わらず私は視線のやり場に困りつづけている。だいいち鏡が多すぎて、色んなものが見えすぎる。左後ろの男の人はもうすぐ二度目の受験らしく、長い前髪を切られながら、口もとをきゅっと引き結んでいる。右隣の女の人は頭にラップをかけられて、静かに目を伏せている。いま、店内にいる全員が、自分にふさわしい振る舞い方を知っていて、私一人がいつまでも落ち着かなくて、恥ずかしい。ふらつく視線を無理に引き戻して、自分の顎のあたりを睨みつける。段々下に伸びてきて、あと少しで鎖骨に触れる。

反対に髪の毛はずんずん短く、隠れていた首筋も耳元もどんどんあらわになっていく。3日前の土曜日、久々に電話に出たら、「卒業式前なんだから、ちょっと伸ばしてかわいくしなさい」と母親が言っていた。前の来店からそれほど経っていないのに、足元にはありえないくらい大量の毛が落ちていて、寄せ集めて丸めたらひばりの子が5羽生まれる。生まれないうちにT字箒で向こうの方に運ばれて、二度と相見えることはない。さよなら。

よくしてもらっても上手く返せず、返せない自分に気付きたくないので、初めからなるべく見ないようにするのだ。振り返ればそこにいる人を、振り返れないことを口実に、雑誌を開くのは大袈裟な気がして、両目のピントを少し外す。切られた次は染められて、聞かれた時は簡単に答える。アイスティーを飲みながら15分待って、洗髪台に運ばれる。全部なるべく曖昧に、決して深入りしないように。

そしたら、指が入ってきた。ぐりん、とやられて、「あ!」と思って、そんなことあるんだなと思って、遠のいていた感覚が一度によみがえる。まぎれもない他人が、半分内側みたいな場所に容赦なく踏み込んできて、今ここに私とあなたが、まぎれもなく同席していることを思い出す。美容室がずっと怖い。もう22にもなるのだ。

お金を払って外に出て、「ありがとうございました」と見送ってくれる人に、どれだけのお辞儀で返せばいいかわからない。二軒隣のラーメン屋を過ぎたら振り返らないことにする。耳の中になぞられた軌道が残っていて、さっきのぐりん、をすぐに思い出せる。