第16投函

あ、今歌詞間違えた、と思う。そこは「僕」じゃなくて「あなた」だったはずでしょう。自分で書いたくせに間違えてるんだから、世話ないよ。聞いてる私の方がよほど正しく覚えている。

「正しく」? 正しいというのはどういうことですか。歌詞サイトに載っているのが、一番正しい? 音楽番組で画面下部を流れるテロップが、一番正しい? 時々、ライブでは音源と少し違う歌詞で歌われて、そのことをよく知っているファンが盛り上がる、ということがありますね。あれはどう? あれは間違ってない。でも、「これがライブヴァージョンだ!」ってミュージシャンが公式に発表しているわけでは、勿論ないじゃないですか。何度もライブに通っているファンが、経験上、知っていることです。じゃあそのファンの中に正しさがあるんですか? 歌詞を書いたのはミュージシャン本人なのに。じゃあ仮に本人が間違うのはいいとしよう、全然違う人が、心を込めて、違う歌詞を歌ってたら? ……なんか著作権どうこうの話になってきそうですね。法律は出来るだけ守った方がよさそうです。信号は青で渡りたい。

あの人の言うことは、あの言い方は間違ってる、って言います。よく言います。その「間違い」というのはどこに準拠してるんですか、なんて、小難しげな言葉をつかうと、大学生っぽくてかっこいいかもしれないな。その「間違い」の裏返しの「正しさ」はどこにあるんでしょう。

そういうこといちいち考えなくても、暫定的に、一時的に、取り敢えずの気持ちでつかえてしまうので、言葉というのは厄介です。「みんなはどうだか知らないけれど、私の中ではこういう意味だから」という気持ちを含めて、もちろんそれは表にはあらわれないんですが、本の扉の前に気付かれないよう、但し書きされた薄紙をそっと挟むように、話すことができてしまう。でも読まれるとき、そんな慎み深い但し書きがいちいち読まれることは、めったにない。「読んでくださいね」と念押しされるか、或いは最初から注意深い性格か、どちらかじゃないと。だから私たち、言葉で交流する時、何となくすれ違うことが多い。やんなっちゃうね。

辞書に書いてることがすべてではないです。権威ある辞書の語義にだって、時々不足があるくらいですから、そもそも辞書の言うことをまるきり信用してはなりません。あなたのつかう言葉はあなたのもので、またあなたそのものでもあります。

だけど同時に、あなたを構成する言葉は、誰か全くの赤の他人と共有しているものでもあります。私がつかっている言葉は、今までに生きて、死んでいった沢山の人たちの、遺物の寄せ集めです。どちらも本当です。あなたの知らないところで、あなたにとって大事な意味をもつ言葉が、誰かを苦しめていることも、ありえます。何だろう、最近見かけたところで言えば、「労働の美しさ」とかかな。あー、厄介ですね。こういうことで何度も立ち止まってしまいます。

自分の脳みそを過信しすぎるきらいがあります。あなたの言っていることが、時々、手に取るように分かるような気がします。あなたと私の境目が曖昧になるくらい。反対に、全然何言っているのか分からない場合もあります。あまりに難解と見えるような時と、文意はとれるけど理解できないような時と。面倒くさいので諦めて、「ワカラン」の判子だけ押して、脇の方にほっぽって忘れることがほとんどです。一回で諦めてしまうのは、怠慢です。諦めるということは、決めつけるとも言い換えられそうです。(とはいえ他にも目を通すべき書類は山のようにあるから、全部を何度も読み返すなんて体力もやる気も、持ち合わせてないんだけれど。)だったら、もう一度戻って、あなたの言葉の表をさらったくらいで、まるきり分かった気になるのも、やっぱり間違いなんだろうか。あ、また「間違い」が出て来た。やんなるなあ。

私が綱のこっちの端っこを握っています。あなたがそっちを握っていてください。私がちょっとこっちを引っ張るから、いやだったら引っ張り返してください。手のひらに伝わるテンションを見逃すことはしないから。私の方も、譲れないと思ったら、力を入れて慎重に、引き戻します。ぶちんと綱が切れることだけは決してないように。

引っ張られてもいやでなかったら、その綱をたどって、ちょっとずつこっちに来てください。私も同じようにするから。どれだけかかるか分かりませんが、いつか真ん中あたりで出会って、今度はちゃんと手のひらどうしで、繋ぎあえたらいいと思う。そういうことをずっと、考えています。

 

令和2年5月18日