日記/20220327/焦る果物

朝、洗濯機をまわして、まわしたまま忘れている。夜に蓋を開けるとなんとなくむわりと湿気が立ちのぼり、またやらかした、と思って翌日の朝、再び洗剤を入れ、洗濯機をまわす。今度ははじめから洗濯・乾燥コース、すなわち洗濯が終わると自動で乾燥に移行してくれるコースを選択(洗濯だけに)。夜になったら忘れていて、また次の朝に蓋を開ける。乾燥が足りなくて生乾き。悩んだ末にもう一度洗剤を、今度は少なめに入れて、またまわす。そういうことが最近ずっと続いている。

「転機」とよんでもよさそうな出来事が立て続けにあってうろたえる。それらは突然訪れたのではなく、ご丁寧に数か月前から決まっていた予定ばかりなのに、心は全然準備できていなかった。毎日外に出て誰かと会っており、そのなかには今思うと、二度と会わないような人もいたかもしれない。そういうことに気づく余裕がない。言葉が全然用意できないまま、いつの間にか別れの時間が来る。普通でいいって、それもわかる、でも言わずにおくのと、言うべきことがそもそもないのとは違うでしょ。

クリーニングを引き取る、眼科に行く、卒業する、ブログを読む、バイトに行く、友達に会う、バイトをやめる、メールを返す。やりたいこと、やらなければいけないことはそれぞれ粒度が異なるはずで、それなのに全部同じに見える。同じ大きさで部屋の中にごろごろと転がっている。変なにおいがして落ちつかないから外に出る。その間にも果物は食べごろを過ぎて、腐っていく。こんなに、天気が、いいのに!

 

日記/20220318

「この辺がざわざわしやがるな」と隣の席に座る社員が胸に手を置くのを横目にみて、聞こえないくらいの音量で「そうですねー」と口の中でつぶやいたのが数日前、その瞬間にざわざわが感染したらしい。朝起きてもざわざわ、高めのパンを買ってもざわざわ、保険を契約するときも、半年ぶりのLINEを送るときも、ずっと心が細かく震えている。落ちつかないがまるきり悪いことでもない。こういうときはいつもより少し目と耳がよく働くので。昨日川沿いを歩いていたとき、三つ並んだベンチに一人ずつ人が座っていて、全員ばらばらの管楽器を演奏していた。知り合いどうしかも知れないし、そうじゃなかったらもっといい。

今日は午前中のシフトしか入れないで、午後から新幹線で帰省するか、それが無理なら眼科で視力検査をしてもらうつもりだったが、どっちも無理で普通に帰宅した。朝、腐った大量の果物をゴミに出したとき、手に持った袋の重量がすごく死体っぽくて、ざわざわが少し悪い方に転んだのを感じた。あるいは普通に寒くて萎えただけかもしれない。電気を消した部屋で日が落ちるまで横になっていた。

Tverでカルテットの配信をやっていたから、今配信されている六話まで一度に全部みた。TV放送当時から数えて多分五周目。円盤はもっていないけど、無料でみられるチャンスは逃さず享受してきた。忘れっぽいから毎回新鮮な気持ちでみている。夜に明るいコンビニの前で司がすずめに差し出す二つのアイス、すずめがロックンロールナッツを選ぶことがすずめより先にわかって、そういやこのドラマみたことあったな、と気づき、高三のとき私よりもカルテットが好きだった友達のことなど思い出す。思い出せて安心する。

二〇時前にやっと電気をつけて飯を食う。ニラ玉と舞茸のから揚げ。二カ月先延ばしにしていたメールの下書きをようやく書いて、今は友達が資料をめくる音とか唸り声をBGMに、これを書いている。ざわざわっていうか、そわそわっていうか、みぞみぞも多分違って、体の全パーツが定位置を忘れてしまった、みたいな。

耳、ぐりん

知らない人の人差し指が耳の穴の中に入ってくるということに、どうしても慣れることがない。耳の中洗いますね、の一言くらいあってもよさそうなものなのに、いつも突然ぐりん!とやられるから、心の中で小さく「あ!」と叫ぶ。実際には顔の方も「あ!」になっているが、布で覆われているので大丈夫、多分ばれていない。「あ!」の残響が終わるころにすべての泡が流れきり、「お疲れさまでしたー」とかなんとか労われながら上体を起こす。開けた視界に慣れないまま、呆けた表情で髪の毛を拭いてもらっていたら、今度はタオルをかませながら耳、ぐりん!をやられて、私は性懲りもなく「あ!」と叫ぶ。22になっても美容室が怖い。

鏡越しに担当の人と目が合いそうになって、あわてて自分の顔に視線を戻す。学生時代の話をしていて偶然同郷であることがわかり、えっチャチャタウンってわかりますか?懐かしい。ああそう、ちょっと歩くとアウディの販売店があって、JRの駅からは少し遠いんですよね。お互いの記憶の地図を重ねて郷愁にかられ、その間も相変わらず私は視線のやり場に困りつづけている。だいいち鏡が多すぎて、色んなものが見えすぎる。左後ろの男の人はもうすぐ二度目の受験らしく、長い前髪を切られながら、口もとをきゅっと引き結んでいる。右隣の女の人は頭にラップをかけられて、静かに目を伏せている。いま、店内にいる全員が、自分にふさわしい振る舞い方を知っていて、私一人がいつまでも落ち着かなくて、恥ずかしい。ふらつく視線を無理に引き戻して、自分の顎のあたりを睨みつける。段々下に伸びてきて、あと少しで鎖骨に触れる。

反対に髪の毛はずんずん短く、隠れていた首筋も耳元もどんどんあらわになっていく。3日前の土曜日、久々に電話に出たら、「卒業式前なんだから、ちょっと伸ばしてかわいくしなさい」と母親が言っていた。前の来店からそれほど経っていないのに、足元にはありえないくらい大量の毛が落ちていて、寄せ集めて丸めたらひばりの子が5羽生まれる。生まれないうちにT字箒で向こうの方に運ばれて、二度と相見えることはない。さよなら。

よくしてもらっても上手く返せず、返せない自分に気付きたくないので、初めからなるべく見ないようにするのだ。振り返ればそこにいる人を、振り返れないことを口実に、雑誌を開くのは大袈裟な気がして、両目のピントを少し外す。切られた次は染められて、聞かれた時は簡単に答える。アイスティーを飲みながら15分待って、洗髪台に運ばれる。全部なるべく曖昧に、決して深入りしないように。

そしたら、指が入ってきた。ぐりん、とやられて、「あ!」と思って、そんなことあるんだなと思って、遠のいていた感覚が一度によみがえる。まぎれもない他人が、半分内側みたいな場所に容赦なく踏み込んできて、今ここに私とあなたが、まぎれもなく同席していることを思い出す。美容室がずっと怖い。もう22にもなるのだ。

お金を払って外に出て、「ありがとうございました」と見送ってくれる人に、どれだけのお辞儀で返せばいいかわからない。二軒隣のラーメン屋を過ぎたら振り返らないことにする。耳の中になぞられた軌道が残っていて、さっきのぐりん、をすぐに思い出せる。 

第18投函

この前はどうもありがとう。久しぶりに会えて、嬉しかった。何だか癪にさわるから、あの日は言えなかったけれど。

あなたの何がいやだって、他の友人がいたついさっきまで、ほんの3分前までは、はしゃいで大声出していたくせに、私と二人になった途端、だんまりを決め込みはじめるところだ。この前だってそうだった。私は「また来たか」と思って、一生懸命話題を探す。今度つくってみたいぬいぐるみのこととか、明日のあなたの予定の事とか、この前奈良に行って見た横断歩道を渡る鹿のこととか、あなたが食いつきそうな話題をアクセル全開で探し回る。それなのにあなたという人は、歩きながら伸びた影の頭のてっぺんあたりをじいっと見つめて、うん、うん、と遠慮がちに相槌を打つ。私はあわてて、さっきの1.2倍声をはってみるけれど、大きな道路の真横を歩いていたから、車の走行音にかき消されてしまう。あなたはまるで私に興味がない。腹が立つ。今だって腹を立てていて、必要以上にぱちぱちと、音高くキーボードを打ち鳴らしている。これじゃまるで、私があなたに色んなことを、話したくてしようがないみたいじゃないか。

あなたの泊まってたゲストハウスまで送っていった後、アジカンを聴きながら歩いて帰った。こんなふうに腑に落ちない帰り道は実に二年ぶりで、穴ぼこだらけで居心地の悪い夜の道が懐かしくて愛おしくて、私はさっき別れたばかりのあなた、ついでに二年前のあなたともう一度会いたくて仕方なくなって、悔しくて駆け足で家に帰った。半袖のTシャツにカーディガンを羽織ったくらいがちょうどいい涼しさも、丁度真上に昇った月も、何から何まで腹立たしかった。あなたというやつは本当にずるい。

たった二日ぽっち戻ってきて、いったい何をしに来たの。私とラーメン食べてる時間に、いくらでも会うべき人、やるべきこと、あったんじゃないの。もっと長い時間いればよかったのに。そりゃ私には、関係ないけど。もっと長い時間いればよかったのにさ。

 

令和2年10月9日

第17投函

いつになるかはわかりませんが、もしも私が死んだとして、誰かが私の人生の一部分を指して「**で暮らした三年間は、あの人の人生の中でも最良の時期であった」などと言っているのを耳にしたら、どうか気づかないふりをして、眉一つ動かさないで、そのまま通り過ぎてください。季節がもしも秋だったなら、どんぐりか何かを8個拾って、お墓参りに来て下さい。私はそれらひとつひとつの太り方や色つやや虫食いなどを恥ずかしげもなくながめまわして、名前をつけて愛撫します。最良だとか最悪だとか、切り分けられた私の時間を合わせた手の中でとろかして、全部どんぐりだったことにしてしまいます。そういうことを考えました。

 

令和2年6月30日

第16投函

あ、今歌詞間違えた、と思う。そこは「僕」じゃなくて「あなた」だったはずでしょう。自分で書いたくせに間違えてるんだから、世話ないよ。聞いてる私の方がよほど正しく覚えている。

「正しく」? 正しいというのはどういうことですか。歌詞サイトに載っているのが、一番正しい? 音楽番組で画面下部を流れるテロップが、一番正しい? 時々、ライブでは音源と少し違う歌詞で歌われて、そのことをよく知っているファンが盛り上がる、ということがありますね。あれはどう? あれは間違ってない。でも、「これがライブヴァージョンだ!」ってミュージシャンが公式に発表しているわけでは、勿論ないじゃないですか。何度もライブに通っているファンが、経験上、知っていることです。じゃあそのファンの中に正しさがあるんですか? 歌詞を書いたのはミュージシャン本人なのに。じゃあ仮に本人が間違うのはいいとしよう、全然違う人が、心を込めて、違う歌詞を歌ってたら? ……なんか著作権どうこうの話になってきそうですね。法律は出来るだけ守った方がよさそうです。信号は青で渡りたい。

あの人の言うことは、あの言い方は間違ってる、って言います。よく言います。その「間違い」というのはどこに準拠してるんですか、なんて、小難しげな言葉をつかうと、大学生っぽくてかっこいいかもしれないな。その「間違い」の裏返しの「正しさ」はどこにあるんでしょう。

そういうこといちいち考えなくても、暫定的に、一時的に、取り敢えずの気持ちでつかえてしまうので、言葉というのは厄介です。「みんなはどうだか知らないけれど、私の中ではこういう意味だから」という気持ちを含めて、もちろんそれは表にはあらわれないんですが、本の扉の前に気付かれないよう、但し書きされた薄紙をそっと挟むように、話すことができてしまう。でも読まれるとき、そんな慎み深い但し書きがいちいち読まれることは、めったにない。「読んでくださいね」と念押しされるか、或いは最初から注意深い性格か、どちらかじゃないと。だから私たち、言葉で交流する時、何となくすれ違うことが多い。やんなっちゃうね。

辞書に書いてることがすべてではないです。権威ある辞書の語義にだって、時々不足があるくらいですから、そもそも辞書の言うことをまるきり信用してはなりません。あなたのつかう言葉はあなたのもので、またあなたそのものでもあります。

だけど同時に、あなたを構成する言葉は、誰か全くの赤の他人と共有しているものでもあります。私がつかっている言葉は、今までに生きて、死んでいった沢山の人たちの、遺物の寄せ集めです。どちらも本当です。あなたの知らないところで、あなたにとって大事な意味をもつ言葉が、誰かを苦しめていることも、ありえます。何だろう、最近見かけたところで言えば、「労働の美しさ」とかかな。あー、厄介ですね。こういうことで何度も立ち止まってしまいます。

自分の脳みそを過信しすぎるきらいがあります。あなたの言っていることが、時々、手に取るように分かるような気がします。あなたと私の境目が曖昧になるくらい。反対に、全然何言っているのか分からない場合もあります。あまりに難解と見えるような時と、文意はとれるけど理解できないような時と。面倒くさいので諦めて、「ワカラン」の判子だけ押して、脇の方にほっぽって忘れることがほとんどです。一回で諦めてしまうのは、怠慢です。諦めるということは、決めつけるとも言い換えられそうです。(とはいえ他にも目を通すべき書類は山のようにあるから、全部を何度も読み返すなんて体力もやる気も、持ち合わせてないんだけれど。)だったら、もう一度戻って、あなたの言葉の表をさらったくらいで、まるきり分かった気になるのも、やっぱり間違いなんだろうか。あ、また「間違い」が出て来た。やんなるなあ。

私が綱のこっちの端っこを握っています。あなたがそっちを握っていてください。私がちょっとこっちを引っ張るから、いやだったら引っ張り返してください。手のひらに伝わるテンションを見逃すことはしないから。私の方も、譲れないと思ったら、力を入れて慎重に、引き戻します。ぶちんと綱が切れることだけは決してないように。

引っ張られてもいやでなかったら、その綱をたどって、ちょっとずつこっちに来てください。私も同じようにするから。どれだけかかるか分かりませんが、いつか真ん中あたりで出会って、今度はちゃんと手のひらどうしで、繋ぎあえたらいいと思う。そういうことをずっと、考えています。

 

令和2年5月18日

第15投函

わざわざ言うまでもないほどの特別さということがあります。ことさらに強調すべきでない嬉しさや悲しさがあります。体操座りで黙って隅の方にうつむいていて、それだけで十分、おやつに手作りチーズケーキが出てくるくらい素晴らしい。だのにいちいちこちらを伺うようにのぞき込んで、どう?って聞きます。上出来の情動?そうでしょう、そうでしょう。私たちはいつも褒められたい。褒められるたびにどんどん不安になって、もっと思い切り首をかしげるから、そのうちぽろりと体から零れ落ちて、河を流れていつか海に出ます。そこで永遠にお別れです。また会うことはありません。

何だかずっと叫びたい。白けた面持ちでバスを待っているその瞬間だって、本当は地団駄踏んでたい。何で私はバス停でもなく、バス停のベンチでもなく、バスをまつおじさんの歯を掃除するつまようじでも、つまようじより奥、食器棚のずっと奥の方に息をひそめるマグカップでもなく、ましてや水でも鳥でも光でもなくって、こうやってバイトに行くためにバスに乗ろうとしているのかしら。部屋の中でペンをとってる瞬間も、本当は、周りに堆積した紙、布、プラスチックの類を全部窓から押し出して、落っことして、後はもう、往来の人々の迷惑気な顔とか犬の鳴き声とか、全部知らんふりして部屋に戻り、またペンをとる。そういう風にしたい時はないですか。そういう時がわりにあります。現に私は今こうやってめちゃくちゃに叫んでいます。胸に大きく息を吸い込んで、声帯をブルブル震わせるかわりに、PCの画面を真面目に見つめて、ガチャガチャとたいそう下品にタイプ、タイプ、タイプ!でも本当に大声出せた方が、どれだけいいかと思います。

わざわざ言うまでもないほどの特別さということがあります。ことさらに強調すれば切実さを減じてしまう嬉しさや寂しさがあります。それは十分、十二分に分かっているのに、どうしてこんな風に、伝えたいって思うんだろう。見せびらかしているみたいで、浅ましいって、言いますか?よく分からない。分からない。分からない。分からないことが随分多い。分からないままで節分の残りの豆を臼歯ですりつぶす。

こんな昼間から、どうしたものでしょうね。さっきから何度も窓の外を確認していますが、やっぱり雨が降っています。

 

令和2年5月16日