第14投函

ウールのコートを羽織って外に出て、五分もたたないうちに暑くなってきたので、首回りが大きくあいた薄手のセーター一枚になって、音の出ない口笛を吹き吹き歩く、そういう季節になりました。遠山を眺めやると、ところどころ洗濯し過ぎたみたいに色が浅くなっていて、多分クスノキとかスダジイだとかが花を咲かせはじめたのだと思います。私はこの季節がいっとう好きです。

お元気ですか。「季節ごとにいちいちお便りします。風物詩になりますよ」とあなたの前で胸を張って宣言したのが三年前、その後すぐにお手紙出して、そこから数えて二通目のお便りです。あー、わあわあ、怒んないで。決して忘れていたわけではないのです。

あなたの職場もきっと今は、休みになっていることと思います。最近は何して過ごしているのでしょう。昼からタラチーを肴にして、机にダンッと脚をあげて、手酌でがぶがぶお酒を飲んでる姿をイメージしています(あー、わあわあ、怒んないで)。

私はというと、たとえば先日は、取り寄せた本を受け取るために、歩いて本屋に行きました。私の歩幅とスピードで行くと、三十分弱かかるくらいの場所です。三十分も歩くのだから、本だけ買って帰るのも癪で、雑草の写真をパシャパシャ撮ったり(最近のマイブームなのです)、行きがかった食器屋さんでお茶碗をアレコレ手にとって、選びかねたりしていました。朝には前日家で焼いたブラウニーが余っていたのを無理に食べて、ちょっと胃がもたれていたから、良い運動ができて良かったと思います。

すでにお気付きかと思いますが、私もこうしたご時世のなかで、定石通りに「丁寧な暮らし」を全力で志向しています。

小学生の頃、デパートの八階で開催されていた特別展につれて行かれてターシャ・テューダーに憧れるようになってから、しばらく私の口癖は「丁寧に暮らしたい」でありました。撮った写真をマスキングテープでアルバムに貼り付けたり、毎日何色も違うペンを使って日記を書いたり、冬になったら縫い物をしたり。いつかは大きな庭のある赤い屋根の家で、コーギー犬にまみれて暮らすものだとばかり思っていましたが、数年たってはた、と気付きました。散らかりまくって片付けもしない机周り、ノート選びには異様にこだわる癖に必ず三日でやめる日記。要は全然向いてなかったのです。

向いてないや、と思って一度は諦めた暮らし方に、ほんの少しではありますが、接近しつつあることに気付き、「これは一体本当だろうか」という疑念がよぎりました。

今まで何度となく前を通ったのに一度だって目もくれなかった陶器屋さんに足を止め、店頭でお茶碗をためつすがめつする自分を俯瞰して、突然羞恥心に襲われたのです。茶碗を目の高さで掲げたまま、一瞬時が止まりました。自分は何をやっているんだろう。他人の豊かな生活をうらやんで、そのままを不器用になぞって真似して、満足しているのではなかろうか。自分の生活を見つめなおすふりをして、実はまるきり逆のことをしているのではなかろうか。誰かの不安や恐怖や怒りや悲しみの上に成り立っている時間を使って? それって何か、見当はずれっぽいし、恥ずかしいっぽい。一時ですが、そういう思いに駆られたのです。

あなたは呆れたように眉をひそめて、「ばかだなあ」と言うでしょう。今回の私はきちんと自力で「ばかだなあ」と引き返せました。掲げた茶碗はそのままレジに持って行きました。奥から腰の曲がったおばあさんが出て来て、丁寧に梱包してくれました。本来眉毛が生えていたはずの場所に張り付いた緩やかなへの字も、これと同じ丁寧な手つきによって描かれたのだろうと想像しました。莞爾とほほ笑む彼女の健康を願いながら店を出て、川沿いを歩いて帰りました。

今日も誰かのレシピで料理をつくります。つくられた料理は私の歯に確かに触れて、温かく、或いは冷たく喉元を通り過ぎ、腹の底まで滑り落ちて、私の身体の一部となります。色々なことがよくわからなくて、ただ目の前の暮らしにのみ、確実な手触りを感じます。先を行く人々の知恵を借りながら、私は私の暮らしを築きます。心惹かれるものが勝手に引っ張ってくれる、そうした引力を信用します。

ちからを養い、蓄えることに、今ばかりは躊躇しないようにしたいです。思考停止に陥らずに、細々とでも考え続けることと、必要とされたらすぐに動き出せること。いささか大袈裟かもしれません。すみません。

落ち着いたらそちらに伺います。あなたに対してはいつも格好つけてしまって、大層な宣言をした後で、思い出しては頭を抱えるのですが、それくらいでちょうどいい気もしています。やっぱり手紙より直接お会いしたいです。話の合間をぬいながら、くるくると変わるあなたの表情をつぶさに観察するのが好きなのです。またいろいろ聞いてください。それでは。

P.S. ちなみに、自室はめちゃくちゃ汚くて、今日の昼食は塩むすび二つでした。毎日二度寝しています。丁寧って何なのでしょう。

 

令和2年5月8日